2013年6月29日土曜日

「あまちゃん」はグループアイドルブームにとどめを刺すのか

 まとまらないので書いてみた。具体的記述が少ないのでちゃんと言いたいこと言えてない感じはする。とにかく、「あまちゃん」は自分をはじめとしたアイドルヲタ/ファンにやさしい結末をもたらさない気がしている。「じぇじぇじぇ」がわざとらしいと感じた理由はこういうものだと思う。

 「あまちゃん」がグループアイドルブームにとどめを刺してしまう。そう危惧されてならない。
 昨今のグループアイドルブームがどういったものであるかをパロディによってブレイクダウンして「お茶の間」(本当に現存しているかはさておき)に伝えることができているという意味で、よくできたパロディなのだろうとは思う。だが本質を写し取っているとは感じられない。
 アイドルブームはヲタと呼称する/されるファンの独特な振る舞いによって印象づけられることが多い。この作品もそれを戯画化しているわけだが、ディテールを誇張が行き過ぎていないか。ディテールの誇張は本質の歪曲を伴わないことは難しい。ヲタがステージに向ける眼差しの写生に成功しているとは思われない。それはステージで(少女が)歌っているという事実の核が、細部を集めてチェックシートの項目にすべてレ点をつけるような工程によって再現できると考えているということなのではないか。
 ディテールの再現性の高さが「ヲタ」にすら本作品が支持される理由だと推察されるが、不思議でなある。それは宮藤官九郎なる稀代の劇作家の技量がためなのだろうが、誇張による違和感は全体に、中心に影響を及ぼしているだろう。
 懸念されることはフィクションから現実へのフィードバックだ。このドラマによってグループアイドルを「知った」人は、グループアイドルの「現実(ライブと読みがなを振ってもいいだろう)」をフィクションに依拠したフレームで認知してしまい、もともとの「ヲタ」とのコミュニケーションを困難にするかもしれない。ドラマとは無関係に活動している地方アイドルが、このフィクションに依拠した存在であることを無邪気に求められ軋轢に悩むかもしれない。かもしれないと控えめに言ったが、こうした事態は確実に起こるだろう。すでに起こっていてもおかしくない。
 言い換えると、現実のグループアイドルという存在が「あまちゃん」以前/以降に二分されて解釈されることを恐れているのだ。「現実」のアイドルたちの強度にくらべて、経済活動としてのグループアイドルは、個々のグループひとつひとつの単位ではNHKの朝ドラの前では消し炭程度の重さしかない。結果、この圧倒的物量によって、事実へのアクセスが困難になる。わたしは恐がりすぎだろうか。しかし、「アイドル」から距離を取らねばならなくなるほどのありがたくない事態が待ち受けている可能性を否定できる気がしないのだ。